夏の始まりの香りがうっすらと空を漂う頃、 去年より少し伸びたスタージャスミンの花々が、一斉に咲き出します。 トスカーナよりずいぶん湿気の多い元箱根にも、 ここ数日は太陽の恵みが燦々と降り注ぎ大地を温めているようです。 標高の高いこの地から、コロコロと車を走らせて向かう、下界の街。 その途中に、紫陽花の咲き乱れる丘が見えてきます。 山を降りると、気温差はいつも10度〜15度。 花の季節も約1ヶ月ほどずれていて、 元箱根ではまだ咲いていない花々も、山を降りれば一足先に満喫できます。 空に向かって咲き誇る、丘を覆い尽くすほどのオルテンシア(紫陽花)。 買い出しに行く途中、ずっと気になっていた場所なのですが、 運転の下手な私にはなかなか立ち止まれなかったオルテンシアの丘。 今年はようやく、その様々な色彩も楽しむことができました。 そしてやって来た7月。 今月はふとしたご縁で、夏目漱石の過ごした旅館の一部屋を訪れることになりました。 お香なのか畳の香りなのか、そこには古い和室のどこか懐かしい独特な香りがたち込めており、 漱石の残した手書きの原稿や、その当時使われていた調度品の残される少し暗い室内には、 磨き込まれた座卓の表面に、窓の向こうの夏の緑が美しく反射していました。 真夏の暑い日を忘れさせてくれるような、涼しい静寂の中で、 彼の滑らす鉛筆の音さえもが聞こえてくるような、そんな錯覚に見舞われたひとときでした。 数十年前、遠いイタリアに旅立つ時、私のトランクをずっしりと重くしていたあの本の数々。 それを作り出したのは、そう、夏目漱石でした。 遠い日本を想いつつ送った異国での日々。 それを支えてくれたのは、家族からの手紙と彼の文学だったのかもしれません。 そして不思議なご縁でみつけた、漱石の過ごしたこの空間。 人気のないひっそりとした建物は、やはり紫陽花の続く道の向こうに現れました。 今日はそんな風景を想いながら、アトリエの机に向かっています。 窓の外は、やわらかな霧に包まれた世界。 我が家のガーデンのオルテンシアは、まだ目覚め始めたばかりです。 2017年7月12日 高野倉さかえ