シュンシュンと 空にトンボが飛び交い 野鳥の大混成軍が仲良く移動を始める、9月。 そして山の生活は 朝の驚きから始まります。 …寒っ! 下界の残暑とは裏腹に 空気はあっという間にひんやり。 昨日までの夏は、いったいどこに消えたのだろう? 毎朝の寒さの中で、そう思います。 この夏は、たくさんの珍しい蝶がこの庭に訪れました。 ブラウンにオレンジの模様がオシャレな、ジャコウアゲハさん。 ステンドグラスのような鮮やかな模様の、アサギマダラさん。 海を越え山を越え1000km以上も旅をするというその蝶の名を知った時、胸が躍りました 風に乗り軽やかな長距離飛行を続ける、ちいさな訪問者。 そして蘇る想い出は、そう、イタリアの窓辺の訪問者たちです。 網戸をつける習慣のないイタリアでは、ほとんどの窓が大きく開放的です。 おかげで景色はクリアーで美しいけれど いろいろなものがよく部屋に舞い込んできました。 蝶々や蜂などの虫たちをはじめ、 スズメ、ハト、コウモリなどなど。 そして私の1番のお気に入りは 吹いたら飛んでしまうような、重さのほとんどないある物でした。 その当時、私はフィレンツェの花の大聖堂すぐ脇のアパートの ちいさな一室を借りていました。 80歳を超えた元気なアンナおばあちゃんの家に間借りをしていたのです。 築何百年という、想像を超えるほど古いその建物には合計4軒の家が入っていて 1階にあるアパート共同入り口、アンティークな木製ドアを開けると その先は細くて暗くて長〜い階段が果てしなく続いており アンナおばあちゃんの家はその最上階です。 天井の高いイタリアでは階段の段数も半端なく多く しかも1段1段の高さや角度に微妙なバラツキがある始末。 日々の買い物荷物を上げるのも一苦労です。 しかしアンナおばあちゃんはその強靭な足腰で なんなく長い階段をこなしておりました。 それでもミネラルウォーターのボトル運びだけは例外。 そこで私の出番です。 毎日1〜2本、2リットルボトルを運ぶお手伝いをしながら 空いている一室を超格安で貸していただいておりました。 古いアパートの床は「コット」という伝統的なレンガ作り。 長い時の中でツルツルに擦り減った表面は波打ち 室内のあちこちでよくつまづいてはいたものの アンナおばあちゃんの愛情がたっぷり詰まったその部屋には お手製の美しい刺繍のついたベッドカバーと、お揃いの生地で飾られた椅子と机 そして大きな窓がひとつありました。 その木製の窓はいつもきしんでいて 思い切り力を入れないと開きません。 でもその窓を両手いっぱいに開けると... 目の前には、口をあんぐり開けるようなルネサンスの景色が広がります。 3色の大理石装飾とブルネレスキの丸屋根が胸を張って 空に大きく、そびえ立っておりました。 クーポラのやわらかな曲線の上には地上約91mの高さの展望台があり、 小人のような人影がいつも大勢。 そして、私のお気に入りの訪問者が窓の外から舞い込んできます。 ひらり... ひらり... ...ひら...ひらりん。 色とりどりのアゲハ蝶のように ゆったりと、そしてふんわりと飛ぶ、その紙切れ。 それは展望台に登る人々の持つ、入場チケットです。 そのカラフルな紙切れが、室内の波打った床に着地する瞬間を見ると なんだか不思議と嬉しくて なんとも言えなく、しあわせな気分になりました。 引越し魔だった私は 家を変える度に荷物が軽くなり バタバタと忙しない移動の中で 舞い込んで来たその紙切れたちもどこかになくしてしまいましたが あの想い出の光景だけは、いつまでも鮮やかにこころに残っています。 フィレンツェの独特の風の香りと 石畳の雑踏と共に。 冷たい雨が森の緑を濡らす、土曜日。 人々の手を離れて、空から舞い落ちるあのチケットのように 野を超え山を越えそして海を越えながら旅をする、あのカラフルな蝶のように こころはふんわりと 想い出の風景を旅しています。 2020年9月26日 今年も大好きな秋を迎える...アトリエの窓より。 高野倉さかえ