嵐の朝、夢を見ました。 ある有名なアメリカ人俳優が、なぜか私を救いにやって来ます。 その瞬間、ふと目が覚めてしまった、まだ薄暗い早朝。 再び眠りにとろけそうになる頭の中に、忘れかけていた昔の思い出がふんわりと蘇ってきました。 それはフィレンツェ旧市街に住んでいた頃の初期。 まだアカデミア美術学校に通っていた時代のお話です。 授業の合間に、私はアルノ川沿いのある洋服店でお手伝いをしていました。 絵葉書のようなヴェッキオ橋の風景が、店を出るとすぐそこにあり 美しい、いい場所でした。 その川沿いに3件の店を構えていたオーナー家族はその昔 地元テレビにも出演していたというちょっとした有名人。 オシャレが好きで地元の古い店々を愛す、チャキチャキのフィレンツェ人です。 そんな彼らには2つの行きつけのバール&カフェがありました。 ひとつ目は、Caffè Giacosa。 誰かの誕生日には、そこのホールケーキをオーダーし、営業中に店内でお祝いです。 1815年から営業していたCaffè Giacosaは 多くのイタリア人が愛する「ネグローニ」という名のカクテル発祥の地です。 店の装飾はアンティーク家具独特の深い艶を放ち 風情あるカフェ・カウンターには お酒を手に話す人々あり、エスプレッソをグイっと飲み干す人々あり コーヒーの味を際立たせるスイーツたちが並びます。 Caffè Giacosaの作るケーキは美しく甘く 誕生日のひとときをいつも笑顔にしていました。 そしてもう一軒。 川沿いの洋服店の数件隣にあった、古いエレガントなバールです。 洋風店のオーナー家族は、そのバールの入れるエスプレッソが大好きで 毎日誰かしらが注文を取り、人数分のカフェを買いに行っては 洋服店の店先まで、銀のお盆で運びます。 その日は私が注文を取る番で 皆の好みを書いた紙を握りしめ、アルノ川を右手に軽やかな足取りでバールへと向かいました。 年季の入った、少しきしむ扉を開くと 60代くらいかな?という年齢の、いつもクールな雰囲気のバールのご主人が その日はなんだか、妙にクールでない表情で頬を赤らめています。 「ト...トムにコーヒーを出しちゃった!」 興奮冷めやらない様子のそのご主人は、少し声を震わせてそう言いました。 「…ん?トム?誰だっけ?」 ポカンとする私に、彼は声のボリュームを1段大きく上げ 両手で大きく感動を表現しつつ、こう続けました。 「さっきトム・クルーズが来たんだよ! なんとこの私のバールに!!」 その当時、街には「ある貴婦人の肖像」の映画の撮影隊が来ていました。 ニコール・キッドマンが主演だった事もあり、当時結婚していたトムもイタリアを訪れ そこここを歩いていたのでしょう。 しかしまさか、こんな近くに来ていたなんて! 「えぇーっ!なんですってーっ?! 呼んでよー!」 私のリアクションに満足したのか、ここで彼は胸を大きく張り その俳優がいかに素晴らしい表情で笑ったか、トムの様子について細かく語り始めました。 一人でふらっと入って来たというそのアメリカ人は、長身ではないけれども何やら美しいオーラを放っていて 一般人の私たちとは決定的に違う点が一つあったそうです。 「コーヒーをカードで払おうとしたんだよ!」 現金を全く持ち歩いておらず、すべてがクレジットカードだったとか。 もし今なら、一緒に記念撮影もできたでしょう。 しかしそれは今から20年以上も前のこと。 携帯にカメラがつく時代はまだまだ先の話で 嬉しいサプライズが彼の扉を開いたその瞬間、彼には写真を取るすべがありませんでした。 クレジットカードでの支払いも簡単ではなく、ある程度まとまった額でないとよく断られたものです。 まさか、当時100円にも満たなかったコーヒーをカードで払おうとする人がいたなんて! 「…ということで、コーヒーご馳走してサインもらっちゃった💖」 それまでオーダー以外にほとんど口を開いたことのなかったあのクールなバールのご主人が 実はとても可愛らしく話好きだという事を知った、ある日のお話です。 2021年7月21日 眩しい青空にトンボがスイスイと泳ぐ、アトリエの窓より。 高野倉さかえ